吉好が落語家になったワケ
お疲れ様です。春風亭吉好でございます。
今回は吉好が落語と出会ったきっかけや落語家を志すきっかけのお話。
よく「落語家になるという事は子供の頃からお好きだったんですね?」と聞かれるんですが少なくとも小、中学生の時には落語を聞いたことはありませんでした。
教科書にも載っていなかったですし、学校寄席もありませんでした。
それでは出会いはどこかと言うと高校生の時です。
大学で落語研究会だった話はよくしますが実は高校の時も落語研究会に入っていました。
ただ高校の時は部活を10も掛け持ちし落語研究会はその内の1つでしかなかったです。演劇部をメインにしていたので実質幽霊部員です。
他の部活が忙しく落語も一席しか覚えなかったですね。
そして本格的な出会いは大学に入ってから。
本当は演劇を続けるつもりだったのですがたまたま友人が先に入っていた落語研究会へ体験入部。先輩方との飲み会が楽しく、ひと月で落研のノリに毒され他のサークルには行けなかったです(笑)
落語研究会に入ったとは言え最初は落語そのものにはそこまで深入りはしてなかったです。
落語と言うよりサークルのノリが好きでいたというか。最初は半分飲み会の為に行ってたかもしれません。
それが一年時の最初の夏休み。部室で1人ゴロゴロしつつなんとなく手に取った落語のテープを聞いて衝撃を受けます。
それが誰もが認める名人である古今亭志ん朝師匠の「井戸の茶碗」でした。
その誰よりも綺麗な語り口、軽快なリズム、そしてテープ越しでも伝わる江戸の風。
落語はこんなに聞きやすく身に染み入るものなのだと。
それからは部室にあった志ん朝師匠のテープをとにかく聞き込みました。
ギリギリ存命中に間に合ったのも良かったです。
亡くなる数ヶ月前の末廣亭のトリの芝居を見に行かせていただきました。
患っている事は知らず楽屋袖から出てきた志ん朝師匠を見て「あれ?写真よりだいぶ細い、、?」なんて思ったんですが座布団に座られ一言喋られただけで場内にブワッと江戸の風が吹きました。これは凄かった。ネタは「野ざらし」。聞いた後は感動のあまり暫く動けませんでした。
生で高座を見る事ができたのはこの時と数ヶ月後の住吉踊りの時の二回だったのですがここまで空気を変える「えー」の一言は志ん朝師匠でしか聞いた事がありません。
そこからは落語の魅力に取り憑かれ寄席や色々な落語会に協会問わずとにかく通いました。
その中で師匠である春風亭柳好と出会う事になりますがそのお話はまた後述。
落研での落語にも精を出しましたが不器用な僕は現役時代は殆ど高座に上げてもらえませんでしたね。
落語の聞き方がわかってからは先輩方の高座も色々と勉強になりました。憧れの先輩の引退高座では泣きましたし。
練習量は他大学の落研と比べても負けない位にうちの落研は多かったかなと思います。
うちの落語研究会は4月から10月まで毎月公民館で寄席をやって現役最後の3年生は持ち回りでトリを11月の学園祭でも各日トリというのが慣例でした。
3年生の7月のトリではウケたのですが学園祭の引退高座でダダ滑りしまして(笑)
この引退高座でウケて綺麗に終わっていたらそのまま落語は趣味として別の道に行ってたかもしれません。
ですがその心残りからOB(3年の学園祭後はOB扱い)になってからも高座を続けました。
さて、そんなこんなで学生落語を続けて四年が経ち、殆ど授業に行ってなかった僕は流石に進路を考えます。
卒業は出来ないにしても落語をやめて就職するか、プロの落語家を目指すか。
就職もしくはフリーターをしながら社会人落語をするという選択肢はなかったです。
そういった方々を否定はしませんし、素晴らしい事とは思いますが不器用な自分には独学では何の進歩もできないし一からちゃんと学びたい。
何より大好きな寄席の世界、落語の世界に飛び込みたいという思い。それが出来ないのなら落語は聞くだけにしてやるのはやめようと。
数ヶ月寄席に通い悩んでどうしても落語をやるという事、落語界への憧れを捨てられずプロの落語家を目指す事になります。それだけ自分には切っても切れない存在でした。
なんせこの僕がその四年間は落語に夢中で殆どアニメを見てないんですからね(笑)
さぁ、落語家を目指す事を決めて何人かの先輩後輩に宣言した後は当たり前ですが親の説得です。
僕は父を13の時に亡くし母に女手一つで育ててもらいました。
大学まで通わせてもらいこれから親孝行しなきゃいけない所で生活が不安定な落語家になるだなんてとんだ親不孝ですよね。それでもどうしてもやりたかった。
最初話した時は母はもちろん大反対しました。どうにかこうにか2日間に渡り熱い想いを伝え、最終的には泣いて土下座をして母が言ったのが「あなたは大会で1位になった訳ではなくただやっていただけでプロとしてやれるのか?」という事。
今にして思うと必ずしも落語家で成功する事=学生チャンピオンではないのですが当時の自分は「確かに」と思いました。
当時学生落語の大会は策伝大賞が始まったばかりで他にもいくつかありましたが四年終了時の自分が出るのも違うと思いましたし(そもそも出たから賞が取れるかという話ですが)、賞を取る以外で母を納得する事を考えました。
考えた結果が落研の枠を越えて交流を広げ、他の人にはできないイベントをプロデュースするという事。これだけの会ができるというのを見てもらいやっていけると納得してもらう事でした。
そこからはまず落語研究会以外のサークルの方と交流を広げマジックやジャズなどを織り交ぜたまさに寄席な会をやったり、関東各地の落研の方と交流をしてセッションの会をプロデュースしたり、ヲタク落語の会を企画したり、色々なイベント企画に精を出しました。元々が人見知りしない性質でしたし、イベントプロデュースも性に合ったのかそれまでには味わえなかった楽しさがありましたね。
プロの落語家になる事を認めてもらう為にアマチュアを続ける事になったのですが(笑)
3年かかったのですが多くの人脈を作り最終的にはヲタク落語会も大成功しセッションの会も100名呼べる会ができるようになりました。
母も途中で根を上げるかと思ったかもしれませんがその会の何回かに来ていただき成功を見てもらいようやく認めてもらえました。
回り道だったかもしれませんがこの時にプロデュースしたノウハウや人脈は今も宝として生きています。
まぁアマチュアで入場無料の会をプロデュースするのとプロの有料の会をプロデュースするのはまた勝手が違うので四苦八苦はしていますが(笑)
しかし母がすぐにプロ入りを認めてくれていたら全く違う生き方になっていたかもしれません。
よく大学8年いた事をネタにしていますが何も考えなしに8年かかった訳じゃないんですよと言うのを今初めて明かします(笑)
この期間にアルバイトでお金は貯めていて、ようやく入門する事になります。
もちろん入門したいからと言ってすぐに入門できるわけではありません。
さぁ、僕がいかに師匠である春風亭柳好の元に弟子入りできる事になったか。
それはまたいつか(笑)
いや、改めて師匠の話をするのって照れますしね。
まずは落語に出会ったきっかけと、母にそれを認めてもらうまでのお話でした。
次の記事では話が変わって料理に関して触れようと思います。
春風亭吉好